沿革


愛媛にフェンシング伝来す!     

昭和28年6月ごろ県会議員吉岡真吾氏に今回本県はじめ四国三県で行われる第8回国民体育大会にフェンシングを出場させたいのであるが、その世話をしてくれないであろうかと話しが持ち込まれた。吉岡氏が松山剣道会の会長であるため日本の剣道と欧米の剣道(フェンシング)と言うことであったらしい。吉岡氏は誰にこのフェンシングをやらせようかと人選に苦慮された結果、松山剣道会のメンバーであった岡田、笹本、笠崎、遠藤氏および松山南高生高野君に指名でフェンシングを行うよう依頼した。岡田氏はじめ各剣道マン達は竹刀(しない)もフェンシングの剣も同じ剣だからと思いフェンシングで国民体育大会に出場することにして練習を行うことにした。日本フェンシング協会から指導者として佐野雅之氏が来県され松山東警察署剣道場において愛媛県フェンシングの第一歩がきざまれた。しかし、剣道とフェンシングの相違は第一に用語にある(当時用語は英語であった)。剣道マン達は用語をマスターするのに大変な苦労をされた。加うるに国民体育大会までにわずかに2ヶ月たらずであるため用語を覚えながらホーム、剣のあつかい、 足の運び、相手のつき方、剣の払い方などすべての技能を一度にマスターしなければならなくなった。佐野氏が帰り、かわりに同じく牧 真一氏が同志社大学のフェンシング部員をつれて指導に来られ国体会場である松山東雲学園体育館で練習を開始し、黒板に用語を書き、その下に訳語を書き、足がうごかなくなるまで毎日練習をした。もともと剣道マンである選手達は竹刀のように剣を使い大学生部員は全身傷の絶え間がなかったようである。吉岡真吾氏は愛媛県フェンシング協会初代会長である。

   国体にはじめて出場

昭和28年10月第8回国民体育大会フェンシング競技が松山城にいだかれた松山東雲学園体育館で開催され本県フェンシングの対外試合第一号が一般男子によって行われた。国民体育大会出場の選手は岡田、笹本、笠崎、遠藤の四氏であった。試合はわずか二カ月ばかりの練習では勝てる事もよもやあるまいと思われたが、それでも一勝し、全員気をよくしたものである。しかし愛媛県と当たった他県の選手こそいい迷惑ではなかったであろうか。剣道と同じで力まかせに剣を使用するため相手選手が逃げ出す一幕もあり、大変ユーモアのある試合であった。ただこれは二カ月間の即席のフェンサーであり、試合が熱中して来ると剣道になってしまうのであろう。相手選手もその事をよく知っておりただ笑ってまた来年やりましょうと握手をして別れたのである。

女子のフェンシング部誕生

昭和29年〜昭和32年にかけては何もわからずフェンシングの手引書とてなく、全員が暗中模索、ただ手探りで自己流に練習をつんでいた。しかし松山東雲学園がフェンシングを始め県下で最初に女子のフェンシング部が誕生した。(部員四十余人であった)

だが用具(剣、プロテクターなど)が不足しており、ぜんが剣を持って練習するという事が出来なかった。また剣を買い入れしようと思ってもどこへ注文すればよいのか、とのようにして剣の良し悪しを見るのかなど何もわからず、結局京都のフェンシング仲間にお願いしたが現金でなければ売ってもらえず、買ってもすぐ剣が折れ、その折れた剣をつなぎ合わせて使用するというような困難な時代であったので次々と女子部員がやめていき、最終的には十人以内になったのである。ただその中で高校男子部員は歯をくいしばり、練習に熱中していたのである。彼らは独自の練習方法を作り出した。それは上半身裸体で練習することであった、剣が当たれば痛いので自然に剣を払うように身体で覚える事であった。この練習成果は全国高校インターハイの京都大会に出場の際に実証された。というのは今まで一回戦で敗退していた愛媛が、この大会では個人フルーレで白石建五選手が準決勝

まで進出し、熱戦のうえおしくも敗れたのである。この事により先輩達は大変喜び後に続く者達にも力を与えたことであった。

松山城南高校に男子部誕生

昭和33年に松山城南高校に高校男子のフェンシング部が誕生した。これが愛媛フェンシングが逞ましくはばたくために歩み出した第1歩であろう。

昭和34年〜昭和37年までの間は愛媛フェンシングの幼児期であり、相手に教えを乞(こ)いまた相手から何かを吸収しょうとしていた時期である。

昭和38年には愛媛フェンシングにとっては少年期である。新しい指導者(白石建五ー国士舘卒、渡部昭夫ー国士舘卒)

二人が松山城南高校に教師として赴任され、新しいフェンシング用語(英語→

仏語)新しい練習方法、新しい剣の使い方、トレーニング方法などについて指導されだんだんと上達していくのがわかつてきたものである。そうして松山城南高校では高校生に格技としてフェンシングを取り入れ、週一時間全員に行っていた。選択教科として一年生には週六時間に、二年生には週四時間行っておりフェンシング部員もしだいに増加しインターハイ、愛媛スポーツ祭、西日本大会、国体予選などに出場し活躍した。また後進のためには大学のフェンシング部入れて指導者を養成しなければならないとの考えから、各大学に働きかけ、主将などに来てもらって良い選手を各大学で引き受けてもらい、養成法をお願いして指導者作りに力を入れる様になり出したのである。しかし、剣そのものが変化して来たので(電気剣になって来た)剣の使い方についてもかなりの高度な技術が必要とされ、なれていないため試合に出場しても相手を突いても電気がつかなかったりして大分苦労ををした。

昭和40年代の活動

昭和40年からは青年期に達したようである。この時期から愛媛フェンシングは登り坂になってきていた。

国体に出場しても一回戦で敗退するということはなくなってきていた。先進県(東京、埼玉、大阪、京都)にも愛媛県は強いということが段々と分かってきたようであった。

昭和41年7月  技術向上と指導者の育成のため講師 石橋氏を招待し第一回フェンシング指導者講習会開催?

昭和42年     西日本フェンシング競技大会 愛媛県で開催(中国プロック、四国ブロック、九州ブロック)の選手達が一堂に集まって試合をするという愛媛フェンシング始まって以来の大行事を運営し、全国組織の仲間入りをしたのである。このころから高校生選手が自主的に考え、自分に合った練習、仲間間での練習に先輩から与えられた以外のものもやる様になり、一歩前進したようである。一般男子においても段々と同行者が増えて来て県内各種大会も大変充実したもになりつつあった。しかし、女子部は次々と減少して行く状況であった。この時期に中京大卒一色氏、同志社大卒三好氏が帰県され、専門的な種目(一色氏ーサーブル、三好氏ーエペ)を指導され愛媛フェンシングの資質の向上をはかった。国民体育大会においてもこの成果が大いに発揮され強豪東京都を破るなど大いに技術の進歩が認められたものである。

昭和46年3月  愛媛県から補助金を頂き日本フェンシング協会技術指導員、オリンピック選手である田淵氏に依頼し愛媛県フェンシング協会主催のフェンシング指導者講習会を県下の学校、事業所、一般市民などに呼びかけ開催

電気審判器導入 

昭和38年第18回山口国体から、フルーレ、エペの二種目が電気審判器で行われるようになった。それまでの競技は、主審一名、副審四名が協議・審判を行っていたため、試合時間はながくなり、その上、判定も満足のいくものが少なかった。特にエペでは判定が容易なように剣先の三つ口になった箇所を針の先の様にヤスリで研き、ユニホームを突く。そのため、ユニホームは、くぎで引っ掛けた様にかぎ形に裂け、縫う時間は無く布テープを貼った姿はみじめであった。電気審判器の導入により、審判員は一人で済み、その上エペでは、全身のどの部分でも早く突いた方が勝ちになるため、公正な判定が出来る様になった。フルーレでは、審判のアタック(攻撃)権の判断に若干の問題を残している。サーブルは、[突きと切り]の競技のため、電気審判器の開発を待ちながら、以前と同様に5名の審判員の協議で行われていた。現在はサーブルも電気審判器になり審判1名で判定する様になった。        

     平成29年7月4日  白石建五  記